季節がめまぐるしく巡って、今日の昼間はまるで夏のようでしたね。
遠くに思えたGWも気がつけばもう過ぎ去っていて、なんだか不思議。みなさまどのようにお過ごしでしたか?観光にいけましたか?又はゆっくりとお休みになられましたでしょうか。
わたしは母方の祖父母家に行って、障子の張替えや陶器市巡りを致しました。障子の張替えは初体験でしたのではじめのうちはなかなかうまくいきませんでしたが、慣れてくると手際良くはれるようになってきて楽しかったです。10歳下の従姉妹と息をあわせてぺたぺた貼っていきました。
わたしには従姉妹が三人いまして、5歳下の男の子が産まれた時にはそれはそれは嬉しかったものです。10歳下の女の子が産まれた時にも感激したけれど、その頃には年が離れ過ぎていてどのように接したらいいのかわからないような、照れ臭いような気持ちもあいまってうまいこと接することが出来ずにこんな歳になってしまいました。
気がついたら彼女がもう中学生活を終わろうとしていて、気がつかないうちにオシャレになって、一番下の従姉妹の面倒をしっかり見ていて、そんな姿をみているとなんだかとても申し訳なくてたまらなくなるのです。なんでもっと遊んであげられなかったんだろうとか、もっとああしてあげられればとか今からでもこうしてあげられればとか色々思うのに、わたしはどうしてもうまく立ち回れないんです。恥ずかしいような、体裁が悪いような、柄でもないような、またはどうすればいいのか具体的にわかっていないのか、いざ彼女と一緒にいるとどうしたら彼女に喜んでもらえるのかわからなくなって結局いつも通りにしか接せられないのです。
一番下の従兄弟に対してはもっとひどくて、きっとわたしが一番可愛がってあげなければならないのに一番厳しい態度しかとれないのです。従兄弟たちの中でわたしが一番精神的に幼いのをわたし自身が一番痛感していて、でもそれを悟られたくなくて虚勢をはって大人の振りをしているのがおよそ滑稽で、とても惨めになるときがあります。面倒見のいいひとに憧れるのは、きっとそういう部分が自分にないからなのでしょう。ひとは自分に欠けている部分を探しながら生きていて、そういったかけらをみつけるとそれが欲しくて憧れて、嫉妬してつらくなっていらいらして落ち込んだりするんでしょうね。
だから此度の障子の張替えは本当に楽しくて、一緒に作業してくれた従姉妹にとても感謝しています。こんなお姉ちゃんでごめん、有難うね。
さて、本日は西国分寺にてホームコンサートの公開GPをさせていただきました。名だたるホールでオーケストラの演奏もとても好きですが、ホームコンサートやサロンコンサートなどせまいところでの演奏も実は好きです。聞いてくださる方がとても近くに感じられて、こんなに一所懸命に聞いてくだすってるこの方々にもっと良い演奏をしたい、って強く思わされます。息遣いが聞こえる近さで、反応も如実に伝わってくる小さな空間で、聞いてくださる方達と演奏するわたしたちで作って行くひとつの小さな演奏会は終わった後になんだか、確かな強さをもったある種の達成感を生み出すんです。それは例えるのであれば春、一番最初に咲くオオイヌノフグリのような、梅雨も開けきらない初夏に、どこかから聞こえる一匹のアブラゼミの鳴き声のような、植え込みに差し込んだまだ柔らかく、しかし斬れ味の鋭い刃先に似た朝日のような、なんともいえない一体感と充足感があるのです。
終わった後、ある方から「川のような演奏ですね」とおっしゃっていただきました。そのときにふと、わたしの古くからの友達が常々いっていた「泉のような音楽(彼はそのような音楽を奏でたいといつも言っていたのです)」に少し近づけているのかな、とおこがましくも思ってしまって、なんだかとても嬉しく思いました。
どんな風に自分が歳を重ねて行くのかはまだ全然わからないけれど、でも流れる川のような、揺れる稲穂のような、続く山々、広がる海、それに番う空のような、とめどもなくて掴めない、満ち満ちた生き方が出来たなら、わたしはきっといつか振り返った時、今日のコンサートが終わった後のような気持ちで人生をおわれるのだろうなと思うのです。
写真は今日の休憩の一枚。