新緑がどんどんわたしの視界を覆って行きます。若く押し付けがましくない柔らかな萌黄色にわたしの中身もどんどん濡らされていって、緑でいっぱいになっていきます。その危うげな、しかし命に溢れかえる葉のひとひらひとひらが地面に零す陽光は、その下を行き交うこどもや犬、ベビーカーを押した若いご夫婦の顔や髪をきらめかせ、木々にはビタキの仲間でしょうか、小さな身体でちょんちょんと細枝を飛び回りながらさえずり歌う小鳥がおります。それらはすべてとても愛らしいのです。
通りには白と桃色のははなみずきが満開です。つつじも惜しみなく花弁を広げて、虫たちは生まれたての命をその羽の震えにふくませています。
古びた近所のリサイクルショップには、いつの時代のものなのか誰に使われていたのかわからない、鰹節の削り機や電気ロースター、梅干を漬ける壺や姿見、果ては三味線などが無造作に薄暗い店内に置いてあります。どの物もそれらが現役で使われていた時代をそのまま身体にまといながら眠っているようで、例えばいまわたしが使い始めたらどんな顔をみせてくれるのか、想像するととてもわくわくするのです。それは新しいなにかを始める時や、春がくる時のどきどきと少しだけ似ているように思います。古本屋さんや骨董品店、リサイクルショップなんかにわたしが惹かれるのはそういうどきどきやわくわくがあるからなのです。
今日ぼんやりと、新緑と麗らかな日差しの中人が行き交うさまを見ていましたら、いきなり涙がでてきました。不思議と涙は止まらなくて、悲しい訳でもなく辛い訳でもなく、ただただ、こんな綺麗で美しくて素敵な光景と音がある世界で、わたしは生きていて、生かされていて、沢山のひとを愛して、沢山のひとに愛されて、支えられて、それなのにわたしはなにをしているんだろうとか、そんなありきたりな悔恨の思いすらどうでもよくなってしまう程、目に映るもの聞こえてくるものすべてが愛しく感じられて、涙がどうしても止まりませんでした。
わたしは定期的に不安定になる癖があってそういう時は訳もなく泣いたりするのですが、今日のはちょっといつもの気分とは違い、なんというか、例えて言うなら結婚式の時、両親への感謝の手紙を読んでいる新婦がたまらず泣いてしまうのと同じような感じに近いのです。感謝や愛おしさがつもって、それがたまたま瞳から溢れたような、そんな感じでした。
4/15から、ottavaというインターネットラジオにて3月に参加させて頂いた「がんばろう日本スーパーオーケストラ」が放送されているようです。わたしもまだ未確認ですが聞いてみようと思っています。
5月25日は西国分寺にて午前中、午後とホームコンサート、25日夜は府中の森芸術劇場ウイーンホールにてラヴェルのソナタを弾きます。2040頃の出番になります。カット版ですがお越し頂けたら嬉しいです…!
チケットにつきまして混乱している節があります、近場になりましたら今一度ご連絡頂けましたら幸いです。ご迷惑おかけします。
6月はベートーヴェンのミサを初めて弾かせて頂きます。7月はバッハの色々な曲を弾きます。生きていると、色々な事があります。色々なひとに出会います。色々な場面で色々なものを傷つけて歩いてしまいます。でもそんなわたしでも幸せに生きてしまったりするわけで、だから幸せに生きられるうちはなるたけいっぱい感謝して日々過ごしたいと思うのです。
どうか様々なものに感謝して生きていけますように、笑顔を忘れないでいられますように、許されたいと願うのはおこがましいけれど、許せるひとになれますように、そんなこっぱずかしいことを思いながら、夏の指先のような生温い夜風に吹かれている夜長で御座います。